世界史の目−Vol.90−

古代ローマ文明〜王政から共和政へ〜

 ローマはB.C.27年、アウグストゥスオクタヴィアヌス。位B.C.27-A.D.14)の時代から帝政ローマ帝国帝政ローマ。B.C.27-B.C.395)となるが、それまでは共和政共和政ローマ。B.C.509-B.C.27)をしいていた。しかし、帝政時代、共和政時代の前に、ローマは王政の時代があった(王政ローマ。ローマ王国)。

 ローマが位置するイタリア半島は、B.C.3000年頃までは、巨石や壁画の文化が栄えた。B.C.2千年紀後半(紀元前1500-1800年頃。B.C.○千年紀は1000年単位で使う年代の呼び方。B.C.2000〜B.C.1001までの1000年間をさす)にはインド=ヨーロッパ系のイタリア人の第一波(ウンブリア系)が東方から半島東南部の山岳地帯に移住して、青銅器文化を営んでいた。B.C.12世紀頃からB.C.1200年頃にかけて、イタリア人の第二波(ラテン系)がイタリア半島中西部の丘陵地帯、つまりアペニン山脈ティレニア海の間に流れるティベル川(テーヴェレ川)の南西地方に南下し、定住していった。

 第二波のラテン系イタリア人の代表であるラテン人は、定着したこの場所がラティウム地方と呼ばれたためそういう呼称がついた。ラテン語を話し、多くの都市国家を建設、ティベル川下流には都市国家ローマが建設された。ローマの誕生については、口承でもって語り伝えられたため史料に乏しく、多くは神話や伝説となって残るが、ローマ建国伝承は、以下の内容が最もよく知られている。

 トロヤ戦争で敗北したトロヤ軍の勇将アイネイアス(ギリシア神話・ローマ神話の英雄。美と愛の女神アフロディテの息子。アフロディテは、ローマではヴィーナスと呼ばれる)は、トロヤ落城後、長き流浪を経て、ラティウムに辿り着く。アイネイアスは、ヴィーナスの子であるため、非常に容姿が美しかった。それに魅せられたラティウム女王ラウィニアは、アイネイアスと結婚し、一男アスカニウスはアルバ=ロンガ王国を築いて王となった。14代アルバ=ロンガ王ヌミトル(生没年不明)が、弟アムリウス(生没年不明)によって王位の簒奪と王太子暗殺に見舞われた。唯一の娘シルウィアは神に仕える巫女とさせされ、死と引換に処女を義務づけられるが、いつの日かローマ神マルス(戦争と農業の神)が降り、シルウィアと交わり、双子の男児を出産した。アムリウスは巫女の掟を破って出産したシルウィアを幽閉し、双子を籠中に入れ、ティベル川中に捨てた。
 ティベル川に流された双子は、その後川岸に打ち上げられた。彼らを助けたのは、一匹の牝狼だった。双子は、牝狼による授乳によって死を免れたとされる(「ローマの牝狼」という青銅像が残っている)。
 しばらくして、双子は羊飼いの主に引き取られ、ロムルス(B.C.771?-B.C.715?)、レムス(B.C.771?-B.C.753?)と名付けられた。パラティヌス(パラティーノ。ローマの七丘の1つ)で立派に成長した二人は、出生の秘密を知った後、アムリウス王を討ち、祖父にあたるヌミトルを復位させた。
 パラティヌスで国家建設を望んだ2人だったが、進行内容をめぐって争いが起こった。レムスはパラティヌスでの建設を望まず、ロムルスは都市建設計画からレムスを除外した。その後レムスは殺害されたが、レムスが死んだとされるB.C.753年、遂に都市国家がロムルスの名に因んでローマと名付けられ(B.C.8C)、ロムルスを初代王(rex)とするローマ王国が誕生したと言われている(位B.C.753-B.C.715?)。パラティヌスの丘には王宮や貴族邸が建設された(パラティヌスは、英語"palace=宮殿"の語源にもなる)。

 ローマが誕生した頃は、アルバ=ロンガ以外にも、トスカナ中心に定住したエトルリア人(系統不明。エトルリアはラテン語で定住地域を表し、民族はエトルスキと呼ばれる)の国家もあった。エトルリア人は、当時ギリシア植民市(マグナ=グラエキア)にならって、多くの都市を建設していき、エトルリア特産の金属製品をギリシア植民市に輸出するなど活発な交易によって国力を蓄えていたが、ラテン人のローマは、力が弱く、まだ小集落的な規模であった。
 ロムルスは、大土地所有者である貴族パトリキ)に参政権を与え、任期終身の議員として議決・諮問機関を構成させた。これが元老院セナトゥス)のはじまりとされている。一方、一般市民である平民プレブス)は当時参政権は認められておらず、小土地所有で農業を営む生活であった。また近隣部族のサビニ人の都市国家を統合して以降、小規模であるが、民会も行われた。

 ローマ王政下の社会組織形態は、氏族制であり、3段階(ゲンス、クリアトリブス)あった。氏族の最小単位であるゲンスが集まると、クリアが構成可能となり、最古の民会(クリア民会)の構成単位にもなった。最大単位はトリブスで、クリアが10集まるとトリブスとなる。伝承では、王政下、3つのトリブスがあり、血縁的な区分を表していた。つまり、ローマには3つの大部族がいて、それぞれ10のクリアを持ち、クリアに所属するゲンスを管轄していた。これらは政治・軍事に利用され、民会(クリア民会)や軍隊(騎士・歩兵)の構成を可能なものにした。このように、当時のローマは血縁別社会であった。

 ロムルスの死後、代々のローマ王は国力強化策を第一として、領土拡大に努めた。アルバ=ロンガなどラテン人都市国家を次々と支配下に入れたが、被征服民はローマ市民やローマ貴族、またローマ王候補者として迎えられた。B.C.615年頃、エトルリア人のタルクィニウス=プリスクス(B.C.615/616?-B.C.579?)が5代目王位に就くと、文化・産業が活性化した。卜占が発展し(鳥の飛び方をみて吉凶を占う鳥占いなど)、外征で勝利を収めたあと、ローマ帰還の際、主将を先頭に兵士、戦利品、捕虜を従える凱旋式や、大競技場にエトルリアの剣闘士と馬を連れて行われたローマ市民の娯楽、剣闘士剣奴。グラディアトール)競技などが行われた。これらは元来、エトルリア人の文化だったのである。また、丘の平地に広場(フォルム)を設け(ギリシア・ポリスの"アゴラ"にあたる)、ローマの七丘の1つ、カピトル(カンピドリオ)の丘には、神殿や砦が設置された(ギリシア・ポリスの"アクロポリス"にあたる)。ローマのフォルムはフォルム=ロマヌム(フォロ=ロマーノ)として有名である。
 ティベル河畔に建設されたローマは交通の要地であったため水上交易が盛んとなり、商業も活発化された。またローマに比べて技術が優れているエトルリアからも次々と設備投資され、水道建設など、文化・産業が向上した。タルクィニウス=プリスクス王は内紛に巻き込まれて没したが、次の君主として、セルウィウス=トゥリウス王(B.C.578/579?-B.C.534/535?)が6代目王位に就いた。彼もエトルリア人であった。

 セルウィウス=トゥリウス王はローマの七丘に城壁を築いたとされる人物であり、その市壁は現在も遺跡として一部残存する。またこの時代はパトリキとプレブスの身分闘争も起こったため、軍隊構成や民会管理がうまく運用できなくなっていた。このため、これまで部族単位であるトリブスを血縁制度から地縁制度に転換、つまり区画整理に利用して市民を登録させた。
 ローマ領が拡大すると同時にトリブスの数は次第に増えていった。そこでローマにおける全市民を管轄できることを可能にするため、ローマ軍隊の構成の際、100人の市民を1単位として"百人隊"とし、これに基づき民会においても、"百人組"として投票権を与えた。この100人単位をケントゥリア(Centuria)と呼び、この言葉から英語のセンチュリー(century=100年)が生まれている。この体制はセルウィウス=トゥリウス王の時代にはまだ実験的段階とされ、完成するのはB.C.5世紀まで待たねばならない。
 1ケントゥリア(=100人)揃うと、何らかの形で軍政に関わることができるのだが、この頃になると、ローマには193のケントゥリアが存在し、財産額に応じて市民階級が整い、同時にパトリキとプレブスの軍事階級が完成されたとされている。この193のケントゥリアの内訳は、騎士階級の18ケントゥリアを最上級として、歩兵階級があり(第1級〜第5級)、第1級が80ケントゥリア、2〜4級がそれぞれ20ケントゥリア、第5級が30ケントゥリアとなり、第2級までは重装歩兵の任務を得た。以下、ラッパ手(2ケントゥリア)、工兵(2ケントゥリア)、等級外(1ケントゥリア)と続く。等級外層にいたっては、実際は100人以上いるにもかかわらず1ケントゥリアしか与えられなかったとされている。形式的にはパトリキとプレブスの区別無い軍事階級ができあがったのだが、実際には階級によって差別があった。
 こうしてローマ市民には、個人としての人権は持たず、トリブスやケントゥリアによって軍隊や民会が構成された。当然、財産のある上流階級であるほど、民会における参政権は絶対的になり、下級になるほど疎遠化されていた状態であった。セルウィウス=トゥリウス王時代に端を発したとされている、このケントゥリアによって開かれる民会を兵員会(ケントゥリア会)と呼ぶが、民会の概念が完成された後には、ケントゥリアとは別に、区画されたトリブスを単位として行われる区民会(トリブス民会)も誕生した。

 セルウィウス=トゥリウス王没後は、エトルリア人のタルクィニウス=スペルブス王が即位した(位534?-510/509?)。彼は今までのエトルリア人ローマ王の中でも独裁欲が強く、民会は勿論のこと元老院の議決をも無視する専制君主であった。彼は、ローマの国土拡大を目指して、戦争を繰り返し、多くの領土をかすめ取った。5代目のタルクィニウス=プリスクス王から続いた、エトルリア人ローマ王政が慣習化されていたことから、7代目タルクィニウス=スペルブス王は、母国でありローマより圧倒的に強国であるエトルリアの都市国家同盟にローマを加盟させた。ローマは今までよりも増してエトルリアの産業・技術・文化・慣習が流入されて栄えたが、結果としては、エトルリアの支配を受けた従属国となっていたのである。
 ローマ市民は、こうしたタルクィニウス=スペルブス王の策略と、王の専政に対して不満がつのり、ローマ貴族によって遂にクーデタが勃発、B.C.6世紀末B.C.509/510?)、王族をすべてローマから追放し(エトルリア人ローマ王追放)、王政を廃止して、兵員会において選出された、2名の貴族によって構成される最高政務官職の執政官コンスル統領。任期年)による共和政(貴族共和政)がしかれた。共和政ローマが誕生したのである。

 政務官には執政官以外にも大神官・法務官(プラエトル。司法)・検察官・財務官・独裁官ディクタトル。非常事態時の臨時最高職で全権掌握する。コンスルの名が元老院より任命され、任期半年以内)などの政務官職が設置された。さらに執政官はこれまでのローマ王と同等の権力を誇る地位として置かれ、軍民の最高官職となった。また元老院議員300人のパトリキで構成され、任期終身となった。また民会は、この時期になるとクリア民会はほぼ形式的なものになり、ケントゥリアによる兵員会が中心的市民総会となった。また区によるトリブス民会も行われていた。

 しかし、ケントゥリアやトリブスの管理体制の場合、民会での議決は上級層から投票が公表されて始まり、過半数に達すると投票がうち切られるシステムであった。中小自営農民が主の下層プレブスには民会の参加権があるものの、参加できていないに等しかった。軍制においても18ケントゥリアの騎士階級はほとんどパトリキ層で、これに対し最も人数を占めているにも関わらず、1ケントゥリアのみしか与えられなかった等級外層にいたっては、従軍義務もなく、参政権はないに等しかった。上層プレブスにおいても、重装歩兵として戦争に参加しているにもかかわらず、官職に就けない不満があった。こうして、パトリキとプレブス内の身分闘争は再び激化し、プレブスは参政権獲得を主張して、ある行動に出た。

 伝承によると、B.C.494(?)年、ローマにいるプレブスは、聖山と呼ばれたモンテサクロの丘(ローマ北方)に立て籠もり、ローマの政治体制に対する意思表明をおこした。伝説上における、聖山事件の勃発である。平民の権利を護り、身体を神聖不可侵とすると誓い、プレビスの代表であるトリブヌス=プレビス(護民官)を選出してプレブス国家を樹立することを目指した。パトリキを中心とするローマ政府は、この非常事態に譲歩することにし、護民官設置と、その護民官を議長とするプレブスによる議決機関としての平民会の設置をそれぞれ許可、プレブス国家樹立は免れた。

 護民官の任期は1年、すべてプレブスから選出される。設立当初は2名選出であったが、B.C.449年以降は10人に拡大した。また旧来の貴族による慣習法の乱用を避けるため、護民官の提唱で、ローマ最古の成文法である十二表法が制定された(B.C.450?)。十二表法は、貴族の慣習法を12枚の銅版に明文化、公示された。また当時、征服地から奪った土地をローマの公有地とし、これを有力者が占有していたため、護民官であるリキニウス(任B.C.376-B.C.367)とセクスティウス(任B.C.376-B.C.367)は、公有地占有の制限を唱え、一人当たり最高500ユゲラ(約125ha)に制限し、重ねて、2名選出されるコンスルに関して、うち1名はプレブスから選出されることなどを規定したリキニウス=セクスティウス法を制定(B.C.367)、プレブスの政界進出の途を開いた。リキニウスはその後コンスルに就任したとされている。
 プレブスの社会的地位が向上した極めつけは、B.C.287年に制定されたホルテンシウス法である。B.C.4世紀からB.C.3世紀にかけては、征服戦争が相次ぎ、半島中・南部に定住するイタリア人一派のサムニウム人(サムニウム戦争。3次。B.C.343-B.C.290)や、全盛期が過ぎ去ったエトルリア人とも戦って彼らの諸国家を征服に成功、また軍道アッピア街道(別称"道路の女王")の建設も始められたが、このため、財政が逼迫し、市民による重税や、徴兵の強制などが繰り返され、特に下層プレブスは負債を蓄積した。リキニウス=セクスティウス法では、負債はむこう3年間は元金のみ返済可能と規定されていたが、税金だけでなく徴兵によって自弁の武具代を負担する状況であっただけに不満であった。また、プレブスは、政府が用意したケントゥリア民会やトリブス民会ではなく、平民会で行われた決議を採用することを望んでいたが、ほとんど元老院を通過することはなかった。これにより身分闘争が再発し、平民たちはボイコット行動を起こしたため(B.C.287)、急遽ディクタトルに就任した政治家ホルテンシウス(生没年不明)の法制定によって、平民会の決議に対し、元老院の承認を得ることなく国法として定められることになったのである。再発した身分闘争はその後収束に向かった。

 平民の政界進出が可能となり、特にその中の上層プレブスはコンスルとなって元老院に入ると、上層プレブスはパトリキと一体化して新しい貴族階級が形成された。これら新貴族階級は"ノビレス"といい、ラテン語で"有名な"を意味し、英語"noble(気高い。身分の高い)"の語源となる。長く苦労して得ようとしていた、平民層にとっての名誉ある地位であった。

 その後、半島南岸のギリシア植民市のタレントゥムを占領(B.C.272)、B.C.3世紀前半にはイタリア半島全域を支配するに至った(イタリア半島統一)。ローマは世界帝国を夢見て、植民市建設を行い、多くの属州(海外領土。プロウィンキア)を獲得していった。
 支配下におかれた都市は分割統治された。植民市はローマ市民と同様、完全な市民権(ローマ市民権)が与えられ、また自治市と名付けられた諸都市には選挙権を除くローマ市民権が付与されたが、同盟市と名付けられた諸都市には、軍隊提供の義務を負ったものの、ローマ市民権は付与されなかった。

 属州の獲得で税収が潤い、公有地や農民土地を買い占めるなどして巨万の富を築くようになっていった元老院議員は、次第に大土地経営を行うようになり、やがて支配領の奴隷を流入して苛酷な強制労働によって商品作物を生産させていった。これをラティフンディウムラティフンディア)という。彼らが得た収入の一部はローマ市民への娯楽費として投じ、平民の支持を得てさらに高い官職に選出されることを望んだ。
 また市民の中でも富裕家が生まれる状況があった。ポエニ戦争B.C.264-B.C.146)、特に第2次ポエニ戦争のとき(218-201)、軍需品の調達、属州の徴税請負などを任され、巨大な財力を手に入れたのである。こうした新興の富裕階級は元老院議員に次ぐ身分として騎士階級"エクイテス"と呼ばれ、土木事業など国営事業を独占、金融資本家となっていった。騎士階級エクイテスは騎馬で軍務に服するという元来の意味があるが、実際は上層階級としての意味に使われた。エクイテスの出現、ラティフンディアの発展、またポエニ戦争の長期化などで荒廃した状況から、同じ平民でも中小農民の没落は避けられず、無産市民と化していった。

 無産市民は、ラテン語でプロレタリー(土地を持たない貧しい市民。"プロレタリア"の語源)と呼んだ。1ケントゥリアしか得られなかった最下位の"等級外"階層の平民に相当する。属州の安価な穀物が大量に輸入されたため、中小農民が必死につくりあげた国産の商品作物は高価なため売れず、無産市民化していったのである。彼らは、民会投票権を含むローマ市民権を有することを誇りに、遊民として首都ローマに向かった。前に述べたように、高い官職に就くためには一票でも多く平民の支持が必要とされた。為政者は投票権を持つ没落無産市民を手篤く保護し、金品・食料の提供を惜しまず、催し物や円形競技場でのスポーツ競技を開催して娯楽に充てさせるなどして、自身の支持に取り込んだ。この状況は"パンとサーカス"あるいは"パンと見世物"と呼ばれていき、富裕家たちの私兵と化していった。同時に、政界も徐々に揺らぎ始める。
 ノビレス階級の中でもかつてパトリキと呼ばれた保守貴族階級は、元老院の伝統を重んじ、元老院の威厳を復活させようとし、一方でノビレスに上がったプレブスやエクイテスといった野心家が集う階級は、元老院よりも民会の権威を拡大して、護民官を拠り所にするようになっていった。前者をオプティマテス閥族派)、後者をポプラレス平民派)と言い、新たな派閥闘争が展開していくこととなる。

 中小農民の没落に端を発したこうした闘争はきわめて重要であり、ローマがここまで発展したのも、相次ぐ外征軍の中核として編成されていた中小農民の活躍が大きかった。しかし没落後は、こうした軍隊も編成されにくくなり、しかも本業である商品作物も出回らず、しかもこれを耕作する土地はラティフンディアに回されている。ローマ市民の格差の拡大は軍制や内外政にも大きな影響を受けることになり、B.C.2世紀後半より、"内乱の1世紀"を迎えるのであった。

 連載90回目にして、古代のローマを紹介するという、妙な構想でスミマセンm(_ _)m これまで古代ローマはVol.4の「元首政ローマ」、Vol.30「ユリウス=カエサル」、Vol.38「クラディウス家の惨劇」、Vol.71「打倒ローマに生きた男」とご紹介してきましたが、いわゆる王政時代と、内乱の1世紀前の共和政時代という、いわば"ローマの創世記"をまだご紹介していませんでした。古代のローマはまだ専制君主政(ドミナートゥス)時代がまだご紹介していませんね。機会があればご紹介します。

 さて、高校世界史ではほとんど知られることのない王政ローマですが、神話時代だけあって、入試に出ることは少なく、ラテン人がB.C.8世紀頃に、ティベル河畔にローマ市を建設したこと、B.C.6世紀末にエトルリア人の王を追放して王政を廃止したことだけ知っておけばよさそうです。ロムルス王のお話は面白いのですがね。

 学習ポイントは本日メインの王政時代ではなく、共和政になって以降の内容が主ですね。ホントによく出題されます。以下の項目は絶対に覚えておきましょう。特に太字が重要です。

@貴族(パトリキ)と平民(プレブス)の階級が分けられていた。
A最高議決機関の元老院は300名の貴族で構成され、任期が終身である。
B執政官(コンスル統領としても覚えておこう)は最初貴族が定員2名とも独占していた。やがてリキニウス=セクスティウス法によって、1名は平民から選ばれることになった。
Cディクタトルはコンスルの1名元老院から任命され、任期は半年以内である。
D平民は統一戦争において重装歩兵の役割が為されていくが、本業は自営農民である。
E護民官は当初2名選出だったが、やがて10名選出された。
F平民会は護民官が議長を務める。
G平民会の議決により国法と定められるのはホルテンシウス法が最初である。
Hリキニウスとセクスティウスは護民官、ホルテンシウスはディクタトル出身である。
I十二表法→リキニウス=セクスティウス法→ホルテンシウス法の順に制定された。
J半島の統一でエトルリア人とサムニウム人を征服し、B.C.3世紀にアッピア街道を建設
Kラティフンディアの進展や徴税請負で富を得たエクイテス階級の台頭によって、中小農民が没落した。また彼らは"パンと見世物サーカス)"となった。
L有力貴族と富裕平民が新しい貴族階級"ノビレス"を形成し、高級官職を独占して元老院を支配する寡頭政治化(少数人で行う独裁政治)し、平民会と護民官が無力化していった。
M保守的な元老院重視の閥族派と、民会重視の平民派との抗争が始まった。

 本編ではローマ共和政の市民管理として、ケントゥリアやトリブスなる用語が出てきました。入試に出ることはありませんが、余裕があれば、平民会が誕生する前の、ローマ政府が認めた3つの民会の名前として知っておいても良いと思います(クリア民会・ケントゥリア民会(兵員会)・トリブス民会)。これらの名前を問うような問題はまずは出ませんが、問題文の中に登場したりすることも時折あるようですし、用語集によってはケントゥリアやトリブスも登場しています。このように、この時代にしか登場しない用語がたくさんあります。騎士といっても、中世の"knight"ではなく、エクイテスと呼ばれたり、貴族でもパトリキとノビレスがあったりと、複雑ですが、これらを理解することで、古代ローマ史はスムーズに流れをつかめることができるので、受験生は頑張ってくださいね。

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